末森城合戦と高松
桜井三郎左衛門の働き
2004年5月 | |
ふる里タンク高松会 川端精二 | |
末森合戦記 昭和25年発行 「高松青年」に記載された金津周朗氏の文で知る末森合戦記 |
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◇佐々成政の侵入◇ 佐々成政は織田信長亡き後、もともと豊臣秀吉に反感をもっていたので、折りあらば北陸を切り従え中央に打って出ようとして、加賀・能登との国境に沿って堅固な城やとりでを築き、前田利家の動静をうかがっていました。 前田家にとって、栄えるか滅びるかの分かれ目といわれた末森合戦は、佐々成政の侵攻によって幕を開けました。天正十二年九月八日夜、木船城(石動東北8Km)を出発した一万有余の大軍は、末森城を我が手に収め、加賀と能登の連絡を中断する計画のもとに、一路西に進んで、宮島(小矢部市宮島)より沢川(宝達山の東方4Km、越中沢川ソウゴ)に出て、土地の肝煎田畑兵衛を道案内として、かろうじて牛首(津幡町)に至り、大海川に沿い黒川、八野あたりを経てその先鋒は吾妻野天神林(東間付近)に布陣し、本営を坪井山(坪山)に置きました。 この末森城は、宝達山の尾根が西北に長く延び、まさに押水平野に消えようとするあたりに位置し、海抜わずか140mに過ぎませんが、付近には高い山がなく、平野の中に突出しているため頂上からの見晴らしも良く、その地理的位置から言っても地形から見てもまたとない要地なので、利家は数多い国境の中でも特に重視し、人々の信望も厚く武略に優れた奥村永福に五百の兵を与えて守らせました。 戦いは九日に始まり、十日になってますます激烈となり、城兵は永福の指揮の下でよく防ぎ、よく戦いましたが、なにぶん目にあまる大軍のこととて戦死あねいは傷つく者が多くまことに危うくなりました。この時における永福夫人(率先して流し前で働かれたので御鍋御前といわれた)の男子に勝る活躍ぶりは今に語り伝えられています。 ◇前田利家の出陣◇ 末森城危うしの急報が尾山城(金沢市)へ届いたのは十日の夕刻です。利家公は直ちにそれぞれの部署を定め、松任城の前田利長をはじめ諸城へ出撃の命令を下し、自らは旗本のわずかの兵を率いていち早く出立し、午後八時頃、弟の前田秀継の居城である津幡城に到着されました。 利家公は、後続部隊を待ち合わすため、一旦城に入り諸将と軍議をこらしました。一同はなにぶん敵は一万有余の大軍であり、ことに神保安藝守らが四千余騎を出して途中で待ち構えているとすれば、二千や三千の兵ではとても勝利はおぼつかない。いっそ末森城の救援はあきらめて、この城の守りを固め、秀吉の援軍を待たれてはと諫めましたが、利家公は聞き入れられず、直ちに夜道を末森城へ向かって進撃を開始されたのです。 指江、狩鹿野を打ち過ぎ、七窪の砂山を経て高松に到着された利家公は、武器をあらため兜の忍の緒(しのびのお=兜につけて顎で結ぶ紐)を強く結び、余ったところは切って捨てられたので、部下の将兵は、殿はいよいよ覚悟を決められたと、生きて帰ろうと思う者はありませんでした。 高松を出られた利家公は、敵の部隊が川尻付近に待ち構えているのを知って、特に警戒を厳重にし、馬にばい(ばい=声を立てないように口に噛ませる板)を含ませ、足音を潜めて波打ち際を前進しました。この夜、月はすでに没し、あやめもわからぬ真っ暗闇で、そぼ降る雨の中を粛々として北へ進んだのです。 (文政年間に書かれた三州志と言う書物の中で、加賀藩の家老今枝直方と言う人が《佐々成政が末森城を攻めたとき、本陣を坪井山に置き、また金澤から末森城を救援に来る軍勢を塞ぎ止めるため、神保安芸守父子を免田川尻の砂山に配置させた。ところが夜中に波打ち際を次から次へと金澤兵が通過してゆくのを知らないで、末森城へ通してやってしまったが、今の高松あたりは、その砂山から海まで二三町(200〜300m)ばかりの距離しかないのに分からなかったのがまことに不思議に思われる・・・云々》のくだりがありますが、利家公の軍勢は、よほど越軍の近くを通過したのか末森合戦当時はもっと海まで距離があったのでしょうか。) 多勢をたのんですっかり油断していた神保軍は、前田軍の本隊が海岸を通過したのを全く知らず、殿軍(でんぐん=しんがりの部隊)五百騎ばかりが通り過ぎる頃になって、ようやくそれに気づき、激しく攻撃を開始しましたがすでに手遅れでした。 夜がほのぼのと明けそめる頃、朽葉に鍾馗の馬幟(うまじるし)は、へんぽんと今浜北方の小山(通称だんご山)にひるがえりました。一刻千秋の思いで援軍の来るのを待ちに待っていた末森城の兵は、遙かにこれを望み見て躍り上がって喜んだのでした。 利家公は、直ちに末森城を取り巻いた佐々軍攻撃の手配をし、城の内外力を合わせて攻め立て、その脇目もふらぬ猛攻に、さすがの佐々軍もついに囲みを解き、死体七百五十有余を残したまま兵をまとめて引き上げを開始したのです。この時、末森城はわずかに本丸の一郭を残すのみで危ういところでした。かちどきは山野をゆるがせ、将士の目には涙が光っていました。 一方、敗退する成政は途中の長柄村を焼き、内高松潟のほとりから横山に至り、伏兵のあることを恐れて賀茂神社の森に放火して社殿もろとも焼き払い、さらに津幡城を襲おうとしましたが備えの堅いのを見て進路を山手に取り、途中の鳥越城を収めて富山に帰ったのでした。 この末森城の大勝によって、利家公の勢望はますます高まり、さらに翌天正十三年、秀吉が数万の大軍を率いて救援し、利家公は共に越中に進撃し成政を降ろすに及んで、加賀百万石の基礎はゆるがぬものになったのです。 |
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