末森城合戦と高松
桜井三郎左衛門の働き

2004年5月
ふる里タンク高松会 川端精二
加賀藩史で知る末森城合戦記
 加賀・能登の前田利家と越中の佐々成政が、国境を接して激しい合戦を繰り返したことはよく知られていて織田信長が本能寺の変で横死して、天下取りの二大候補者となったのは、豊臣秀吉と徳川家康である。利家はかねてより昵懇の仲であった秀吉に同調し、秀吉嫌いの成政は家康に与し、かって信長配下の将校として同僚であった利家と成政は、互いに敵対せざるを得なかったのである。

 最初に仕掛けたのは成政側である。天正十二年(1584)八月二十八日、加賀朝日山(金沢市加賀朝日町)の砦を攻めたが、豪雨のため、あっさり引き返した。戦国軍記「末森記」によると、同年九月九日、成政は八千騎を率いて能登末森城を包囲した。この城は、現在の石川県押水町末森山に築かれた山城で、海岸まで三キロ、加賀国境にも近く、利家の所領である加賀と能登の結節点にあたる。成政は、ここを奪取して加賀と能登を分断し、利家の軍事力を半減させ、金沢へ侵攻しようともくろんだのである。

 佐々軍の総攻撃は、翌十日の払暁と同時に始まった。最初に動いたのは、西の大手口に展開する佐々与左衛門率いる五千余の大部隊であった。佐々勢主力は、城際から鉄砲を浴びせ、城内からの応射を制圧した。続いて吉田口にも野入平左衛門らが押し出し、佐々勢は大手口と吉田口の両方で同時に城門を突破した。十分な守備兵力を配置できないまま奇襲された城方は、外郭の若宮曲輪と三の曲輪を放棄し、二の曲輪に兵力を集中して防戦した。しかし、城内に雪崩れ込んだ寄せ手の勢いは止まらず、一手になって殺到する佐々勢に城内は圧倒され、主力を投じ防戦に努めた二の曲輪でも敗退、千五百ほどいた城兵はわずか三百余にまで打ち滅ぼされ、ついに本曲輪へと撤収した。

 末森城は孤立無援の窮状に陥ったが、城主の奥村助右衛門以下、城兵全員玉砕の覚悟で防戦したが、圧倒的な兵力の差は如何ともし難く、曲輪は次々と奪われ、更に兵糧さえも奪われたが、城兵の士気は衰えなかった。城主奥村夫妻の叱咤激励で、利家の救援に一縷の望みを繋ぎ、その到着まで死守すべき旨が徹底されていたのである。

 十日午前八時頃になって、ようやく佐々勢侵攻の知らせを受けた尾山城中では、出陣の是非を巡って利家と重臣たちの間で激論が交わされていた。即時出陣を主張する利家に対し、重臣一同が躍起になって引き止めにかかっていたのである。能登から加賀北部にかけて細長く広がる前田家の所領は奥行きが浅く、佐々領の越中との国境の大半は、海岸までわずか十キロメートルほどの距離しかなかった。戦略上の弱点として致命的なほどの危険地帯が延々と五十キロメートル以上にも及んで続いていたのである。この危険地帯に佐々勢が侵攻してきた場合、前田領は南北に分断され、前田家の存亡に係わる重大な局面に立たされる。それだけに利家はあえて兵力分散の危機をおかしながらも国境の要々に兵力を点在配置していたのである。
 五十キロにも及ぶ国境危険地帯に兵力を分散していたため、利家の手元に集まった兵力は三千に満たなかったため重臣たちは利家の出陣に反対したのである。しかし、利家には勝算があった。成政が前田勢を末森城救援に誘い出そうとしていることは、利家はもちろん重臣たちもよくわかっていた。重臣たちが待ち構える佐々勢の優勢と伏撃を恐れていたのに対し、利家は佐々勢の弱点になると考え、重臣たちを説き伏せ出撃し津幡まで進出したが、すでに第一報から十二時間、佐々勢が末森城下に侵攻してから三十時間が経過していた。松任から利長が到着し、利家指揮下の兵力はいくぶん増えたが、それでも万余の佐々勢の三分の一にも満たなかった。

 しかし、この場合、重要なのは兵力ではなかった。前田勢の雨中の夜間行軍は、巧妙この上ないものであった。周辺の領民から次々に注進を受け、的確に佐々勢の哨戒線を見極め、十一日未明、隠密行動で佐々勢の哨戒線を突破し、背後から襲う奇襲作戦、いわゆる後巻を敢行したのである。これに呼応して、城主奥村助右衛門も籠城するわずかな兵力から一隊を編成、搦手口を開いて討って出た。絶対的な確信をもって布陣した待ち伏せ哨戒線を突破された佐々勢主力は、前後から攻め立てられ、野々村主水ら将十二人を含む七百五十余が討ち死にし、末森城攻防が始まって以来の大損害を被り総崩れとなったのである。

 利家が前田家の運命を賭けて戦った末森城の合戦は、地の利、領民の協力で奇襲作戦が成功し、佐々勢は本陣坪井山(現在の坪山)の南方に退却した。この末森の合戦は、陸軍士官学校の講義で、少数勢力による奇襲の見事な成功例としてよく引き合いに出されたそうである。「末森記」には、合戦の様子が、さながら戦闘ルポルタージュごとく記させている。敵の鉄砲隊の猛射の中を、利家自身が黄金色の馬印うち振りつつ、「敵の銃弾ふりそそぐ下で留まったままでは、戦死者が増えるばかりだ。者ども、臆するな、うってかかれ!」と味方を叱咤する描写は、至近距離から筆者慶雲が見た強い印象をうかがわせる。

 その後、幾度の合戦を経て、秀吉の大軍が出陣して越中に侵攻して、富山城に拠る佐々成政は遂に降伏した。秀吉は新川一郡を成政に残し、婦負・射水・砺波の三郡を利家の長男利長に与え、前田の所領はこの段階で八十二万石にふくれあがった。「末森記」によれば、成政を切腹させるといきまく秀吉に対し、利家は助命を進言したというが、利家は、まことに血も涙もある名将であったと言えよう。

引用文献:前田育徳会展示目録187・社団法人金沢経済同友会「石川県って、どんなとこ」・河合秀郎著書「末森城の攻防」