末森城合戦と高松
桜井三郎左衛門の働き
2004年5月 | |
ふる里タンク高松会 川端精二 | |
末森合戦と情報収集で勝った桜井三郎左衛門 (末森城合戦を理論的に穿って検証し、想像し練り上げてみました) |
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本能寺の変で信長が横死してから、信長配下の先輩同僚だった佐々成政が徳川家康に組し、前田利家の領地分断を狙って能登末森城を奪取しようと攻めてきた。天正十二年九月九日佐々成政は、八千余の大軍で末森城に総攻撃をかけてきたので、あまたの城兵は討ち死にした。 翌十日救援に向かい津幡城まで駆けつけた前田利家の兵力は佐々成政の三分の一にも及ばぬ僅か二千七百で、圧倒的な敵を前にしての津幡城の軍議では末森城の救援をあきらめ、秀吉の援軍を待つべしとの意見が多かったが、利家は断固としての救援を決断した。 津幡城に於いての軍議で利家と村井長頼が後巻(うしろまき=城を包囲している敵の背後から攻める)を強硬に主張したとありますが、末森城に到着するまでに当然待ち伏せ隊があるので、少数部隊での後巻作戦は困難だと分かっていたはずです。兜の緒を切り、死をも覚悟していた頑固な利家は、決死の強行突破をも考えていたのではないでしょうか。 鵜ノ毛(宇ノ気)で桜井三郎左衛門に出会って、北川尻で布陣する佐々軍神保隊の様子を聞き、ナンシャバタ(波打ち際)沿いの伏せ道を知って、よし’いける’と確信を持って奮い立ち、はじめて今浜口での後巻作戦を敢行したと考えるのが自然です。 (奇襲作戦で成功した例に、源平の戦いで源義経が、浜辺で海に向かって待ち受ける平家の大軍を、「鹿も四つ足馬も四つ足」と、人馬もろとも鳥も通わぬ堅固な六甲の’ひよどり越えの逆落とし’(45mの崖を一気に駆け下りた)を敢行して勝利した一ノ谷合戦や、木曽義仲の倶利伽羅峠「火牛の戦法」(注1)の夜襲などがあります。前田利家も参加した桶狭間の合戦で織田信長が勝利したのは、奇襲作戦が成功したのではなく、信長の捨て身の殴り込み戦法が天の利を得て大成功したのです。当日の物凄い豪雨で浮き足立っていた今川軍の前軍の乱れが、信長のいきなりの突入で敗走を始め義元の本陣まで大混乱させて信長軍の本陣乱入までゆるしてしまい、今川義元討ち取りを成功させたのだと考えられています。) 末森合戦の場合、九月十日の夜半から降ってきた雨が月明かりを隠してくれたのを幸いに、密かに海岸をひた走り、敵の背後を突く作戦が大成功したのだから、義経の一ノ谷の合戦と逆に海側からの奇襲成功であります。この戦法は後に鯨戦法と言われています。 そして未明、今浜口の団子山で、突如海側から湧き挙がる鬨の声に、佐々の大軍が肝をつぶして総崩れになったのが理解されます。 倶利伽羅峠の合戦、一ノ谷の合戦は一進一退の戦いで、義仲が奇策を用いて勝利したのに対し、末森城合戦は佐々軍の一万三千に対し前田軍二千七百と言う完全な劣勢を覆して勝利したものです。利家は情報を提供し道案内をしてくれた桜井三郎左衛門に望み通りの恩賞を取らせた陰には、作戦が図に当たり得意満面の利家が思い浮かびます。 情報収集に優れていた桜井三郎左衛門 末森城周辺の村人たちは、合戦で燃え上がる山手の村々に驚き、取るものもとりあえず右往左往していたことでしょう。(当時の合戦では伏兵を恐れて火を放った。また村人には消火の手だてがなかった) 高松周辺は内灘砂丘の北端に位置していて、地表が乾燥した水がない砂丘地なので、田圃や畑など豊かな農作物が出来ず、村人の多くは漁民だったと思われます。海の瀬と瀬の間のように砂丘の谷間に横たわる侘びしい漁村の高松集落には、戦乱の農民から逃れて来た人もいて、戦乱の情報収集に向いていたと想像されます。この時代の人々は健脚(なんば歩き(注2)をしていた)で素早く行動をしていたのでしょう。その中でも知力腕力に優れた中心的な人物が桜井三郎左衛門で、村長(むらおさ)だった彼は末森城周辺の山あいから木津、高松、川尻、今浜の海辺沿いなどの情報を集め、北川尻の砂山に布陣して待ち伏せている神保氏晴隊四千の大軍や、反面人影のない海辺の状況をつぶさに知り、雨が降って月が隠れた今こそ海岸沿いに進む作戦が最善だと判断すると、じっとしていられなくなり、前田利家隊へ注進のために決死で走って、幸い宇野気川を渡る前田利家に会うことができました。 当時の軍兵は、騎馬武者一人に五人の足軽が護る一隊の構成で編成されていたので、二千七百の前田の軍兵には四百頭以上の軍馬がいた事になります。桜井三郎左衛門は砂丘の谷間になって格好の潜み場になる自分の屋敷(現在の額神社一帯)に前田利家の軍馬を案内しました。そこで四百頭の馬を鳴かせないためにバイ(木片)を咬ませて素早く出立させ得たのは、九月十一日頃(現在の太陽暦で2004年は10月25日になる)の桜井家では、もう冬支度の薪が山積みになっていたので容易に行えたと考えられます。 前田利家の兵を送り出して小半時、約5Kmの今浜口なすび山(現在の能登カントリー)から早朝の秋空を揺るがす大音響の勝ち鬨が挙がった。不意打ちを食らってあわてる佐々軍を蹴散らす前田軍、それでも戦いに慣れている佐々軍はしんがりをしっかり纏めながら退却しただろうと思います。 桜井三郎左衛門等の活躍により思いがけず合戦に大勝した利家は、帰路再び桜井家へ立ち寄り、望み通りの恩賞を取らせると言われ、桜井三郎左衛門は高松村全体の地租税免除を願い出て利家公は快諾されました。当時の高松村は田畑が少なく、租税の実入りが期待できないひなびた寒村だったので、利家公も桜井三郎左衛門の願いをこころよく聞き届けられたのでしょう。 その後も桜井三郎左衛門翁の活躍はめざましく、天正十二年から慶長十年までの二十一年も十村役を務められ、その間には、不毛の長柄台地に大海川から水を引くべく計画して藩への申し入れをなされ、長柄用水の難工事を立ち上げました。その長柄用水は数百年を経た現在も周辺の田畑を潤し、私達町民の幸せを守り続けています。 高松村の地租免除は天正十二年から明治八年まで二百九十一年もの間続きました。租税免除になった寒漁村の高松村には多くの人々が集まり始め、人の集まるところに金は集まると言われるように、次第に豊かな宿場になって発展し、現在のような大きな集落高松になったのです。 末森城合戦で、素早く情報を集め迅速に対応した桜井三郎左衛門たち高松の先人の優れた行動は、脚から電波へと通信の方法は格段に進化していますが、I T(インフォメーションテクノロジー)情報化時代の先鞭をつけるもので、いつの時代でも情報の収集がいかに大切かを教えてくれるものです。 (注1) 1182年木曽義仲の倶利伽羅峠の合戦には、河合谷あたりの牛まで取り上げられて、山村の百姓たちは随分苦しんだようです。それから百年以上が過ぎて河合谷の瓜生からは有名な総持寺二代目住職蛾山禅師が出現されています。 平家の落ち武者が山窩となって山にこもり、中には明治維新以降まで所在がはっきりせず新平民となった人もいたようですが、源平の合戦から百年以上も後の時代に瓜生で生まれた蛾山禅師は、平家落ち武者の後裔だったかもしれません。 彼は瓜生で生活し羽咋往来を稼ぎ場にしていた山賊であったとの言い伝えがあります。ある時、彼が身ぐるみ剥いできた娘さんの持ち物を見た女房が、こんな立派な笄(こうがい=櫛)を挿していた娘ならさぞかし髪も立派な筈、なぜ髪も切ってなかったのかと咎められ、自分の生業に嫌気がさして瓜生を飛び出して、当時羽咋方面で人気の高まっていた永光寺(1313年開山)の開祖螢山禅師を頼って仏門に帰依し、立派な二代目住職として人望を集めたと伝えられていましたが、今はその伝説もほとんど消えかかっています。河合谷の瓜生から羽咋往来で鍛えた足腰が、永光寺から門前の総持寺まで52Kmを朝の内に行き来し、双方で朝の読経をされた由来の元になったのでしょう。 (注2) 現代の電波のように、縦横に情報を集められたのは当時の人達の足の移動による伝達方法が優れていたからです。明治になってヨーロッパの軍事教練が始まるまで、農耕民族である日本人の歩行法の基本は「なんば歩き」(飛脚走法として伝えられている)だったと言われ、江戸から仙台までの70里(280Km)の距離を、夜中の4時に江戸を出立した飛脚が翌朝2時には仙台に到着していたとの記録が残っています。能登でも酒井の永光寺から門前の総持寺までの長い山道を毎日移動して両方で読経された蛾山禅師の逸話が残っているように、桜井三郎左衛門翁達も「なんば走法」で素早く移動し情報を伝達していたのでしょう。高松の無形文化財「やっさん踊り」もなんば歩きと同じように、右手右足を同時に同方向へ動かす踊りなので、疲れを知らず何日も踊り続けられるのです。 |
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