長 柄 用 水 探 索 報 告
寺口 学 (転載&編集:橋爪 直)
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【探索経路】
@ 盛土神社
A 改修記念碑
B 弁天池
C 分水
D 盛土居・地蔵尊
E 宝谷の樋
F 新保谷の樋
G 元女トンネル
H 辺津理
I 小林家
J 取り入れ口(取水口)
【探索に至るまでの経緯】
探索は平成18年11月25日、上記のとおり、用水をさかのぼる形でおこなった。
この探索は、かほく市在住の某氏が、長柄用水建設を題材とした小説を執筆するに
あたり、長柄用水を案内してもらいたいという依頼から計画したものである。
【歴史】用水建設着工前から完成後まで
今の長柄町一帯は戦などで荒廃し荒れ果てた土地であった。中世には「長柄千軒」 この用水は享保2 年から同8 年までの6 年間を費やして完成し、その距離は、二里二十四町(約11.5キロ)におよんだ。これにより、用水が通る近隣の村々では作物の生産量が増加し、新たに長柄台地に34.5haの新田が開かれ、用水完成から17年後の十村役新左衛門(桜井家9代)のとき(元文5年(1740))に高松新村が正式に村として公認されたのである。 ※当時、長柄用水は高松新村用水と呼ばれていた。 |
【用水関連項目の説明】(説明順番は探索経路と同じ) 用水の完成後は長柄村の氏神と合祀し、現在の盛土神社となった。 祀られている神にはそれぞれ用水に関連した由来があり、以下の通りである。 ・貴布禰神(きふねのかみ) 用水取り入れ口に由来するもので、水源の神であることから水がかれることが無いようにと祀られた。 ・迦具土命(かぐつちのみこと) トンネルに由来するもので、トンネルを掘る際は明り取りの火が必要になることや、水平や勾配を計る道具を使用する際に必要なために祭られた。 ・賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ) この用水工事で亡くなった犠牲者の弔いのために祀られたものとされる。この賀茂別雷神は京都賀茂神社に祀られる神で、横山賀茂神社もこの神である。 ・市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ) 長柄用水の最終地点である弁天池に由来し、水の女神として祀られたものである。なお、弁天池の名前は市杵嶋姫命の通称である弁財天が変形したものとされている。 A改修記念碑 長柄用水の改修工事が、総額1億5.680万円をかけて昭和54年この着工以来8 年ぶりに完成したのを記念し、昭和62 年5 月に弁天池の向かいに建立されたものである。碑の高さ3 . 5 メートル、重さ25 トンもある羽昨市滝町産の石で、碑文は町長、長柄朝の筆で、傍らには由来書きの副碑も添えられている。 B弁天池 弁天池は夏栗分水から100m程先に所在する池である。弁天池の名前は市杵嶋姫命の通称である弁財天が変形したものとされている。 C分水 分水とは夏栗方面と長柄町方面とで7:3で分けるようにされた長柄用水の分岐点である。この分岐点にはこの用水が造られた当時から分水するための石が置かれている。 D盛土居・地蔵尊 これは山と山の間の谷に用水を通すため土を盛り上げたものである。盛土居は高さ20メートル、長さ90メートルのもので、日本には他に類のないものである。現在、一部は道路を通すために水管橋になっている。以前は水樋が土居の上(天端(てんば))を通っていたらしいが、今はU字溝となっている。
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文化13年(1816)に大きな被害を出した時に藩の役所である改作奉行に提出した文書である。
H古林家
取り入れ口のある「がきが首」の近くには用水の番をしていた「夏栗屋庄右衛門」という人がいた。用水の完成から現在まで7代にわたって用水の水番をしている。 I取水口 長柄用水の取り入れ口は、海抜75 メートル地点の河合谷村(現津幡)大田の通称ガキガ首に設けられている。取り入れ口から少し先に大排水が設けられており、水の調節機をするためのものである。 ※ガキガ首伝承 |
【参考】高松新村一村建の申付書(写) この古文書は、十村役平兵衛(桜井家8代)によって長柄用水が引かれたことにより、新田が開けたため、新たに村を建てたいと十村役新左衛門(桜井家9代)が藩に願い出たものである。この結果、元文5年(1740)に高松新村が正式に村として公認された。 【参考】サイフォン伝承とその技術について 長柄用水では完成当初、「釣り溝」と呼ばれた「サイフォン」(siphon)という高度な技術がつかわれていたといわれている。サイフォンとは出発地点が目的地点より高い位置にあれば、液体の移動によって管の内部に真空を作りだし、それにより液体を移動させることができるという原理である。 途中、どれくらい高い地点を通ることができるかは、大気圧と液体の比重とによる。 最高地点においては、重力が液体を両方に引っ張ろうとし、それにより真空が発生しようとする。 出発地点にある液体表面にかかる大気圧は、液体中を伝わり、真空が作られるのを防ぐ。 管内部にある液体の重量と大気圧が等しくなると、真空が発生してしまい、サイフォンの効果は生じない。 1気圧下において、水ならば最高約10mの高さを通るサイフォンを作ることができる。 水銀の場合、おおよそ76cmのサイフォンが作成可能である。 (長柄町のあゆみ・石川県河北郡高松町史を参照) (サイフォンの原理の説明はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照) 【参考】用水の管理・工夫について 長柄用水の完成以来、人々は水路を守るためにさまざまな工夫や維持管理をおこなってきた。そのさまざまな工夫や維持管理の方法をこれから順におっていきたい。 [水路に施された工夫について] ・漆喰(しっくい) U字溝に整備される以前は、水路の曲がり角など、水流が強くあたる場所は壊れやすい場所であった。そのため、「漆喰(しっくい)」(石灰・粘土・苦汁などを混ぜて作ったコンクリート状のもの)を塗って補強していた。 ・箕打の水トンネル 取水口から2番目にある「箕打の水トンネル」には塵芥処理場や泥ぬきの仕掛けがそなわっており、毎年清掃作業がおこなわれている。 [用水管理・維持について] 用水維持管理については毎年、春の用水堀、土手(弁天池)の枯れ草焼き、秋の草刈がおこなわれている。また、取水期には、水路の修理など、農家の人々は今でも用水をっ守るため努力している。 ・堤(弁天池)替え行事 昔から3〜4年おきに堤(弁天池)の水を抜いて点検をおこなっている。この点検では集落の娯楽を兼ねてコイ・フナ・ウナギつかみ取りをおこなっている。 (長柄町のあゆみを参照) 【参考】測量法について 長柄用水の230分の1という勾配を生み出すためには正確な測量が必要となってくる。この測量の実行については土木工事を専門とし、用水建設に協力していたという黒鍬宝達組がその技術を持ち、おこなっていたように考えられる。 この測量法については史料も少ないため、あまりよくわかっていないが、金沢市辰巳用水の建設に際しては、「町見盤」という道具が使われていたようである。 町見盤の説明については、『加賀・能登 先人の歩み』(金沢大学教育学部附属高等学 2001、石川県高等学校文化連盟郷土部発行の会報40号(2002.3)より参照し、改変)に詳しいのでこれを参照する。 「辰巳用水が作られた当時は測量のことを『町を見る』(何町あるかはかる)、また、『何間の見様』(何間あるかはかる)などといい、『町見』は、日本で測量を意味する述語であった。そして、測量の原点(三角点)を含む同一水面上にある各店の方角を見るために作られたのがこの町見盤である。(町見盤は「町間の台」を略し「見盤」)ともいった。) 【今後の課題】 今の時点で、詳しくのべることはできないが、長柄用水を全国の用水と技術面などを見比べることや、サイフォンの使用についても考えていく必要がある。 【参考文献】 石川県高松町史 高松町史編纂委員会 1974 長柄町のあゆみ 長柄町活性化委員会 2000 石川県高等学校文化連盟郷土部会報40号 2002 4年社会科資料集第8版 たかまつ 高松町学校教育委員会編 1996 高松の地蔵・石碑めぐり 石川県河北郡高松町教育委員会 1990 図説押水町のあゆみ 押水町史編纂委員会 2001 石川県高松町史 史料編 高松町史編纂委員会 1983 |