寺口 学 (転載&編集:橋爪 直)




【探索経路】

@     盛土神社

A     改修記念碑

B     弁天池

C     分水

D     盛土居・地蔵尊

E     宝谷の樋

F     新保谷の樋

G     元女トンネル

H     辺津理

I     小林家

J     取り入れ口(取水口)



【探索に至るまでの経緯】

探索は平成181125日、上記のとおり、用水をさかのぼる形でおこなった。

 この探索は、かほく市在住の某氏が、長柄用水建設を題材とした小説を執筆するに
あたり、長柄用水を案内してもらいたいという依頼から計画したものである。

【歴史】用水建設着工前から完成後まで


今の長柄町一帯は戦などで荒廃し荒れ果てた土地であった。中世には「長柄千軒」
とまでいわれた村があったと伝
わるが、天正12年の末森城の合戦による兵火により
壊滅
状態となった。この後は住む人もまばらとなり、長柄平野は近くを流れる大海川
より高い位置にあったため開拓して
田畑を作ろうとしても水を引き入れることができ
ず大変水
不足に苦労している状態であった。そこで、この当時長柄台地の開拓に取り組んでいた十村役桜井家当主桜井平兵衛は正徳年間(17111715)に用水を造ることを発案し、用水建設に尽力したのである。しかし、用水建設には、ただならぬ労力と資金が必要であったため、用水が通る各村々からも反対する声があり、用水建設への壁となっていた。だが、平兵衛はあきらめることなく説得を続け、享保2(1717)に藩の裁許を得、翌年から本格的に用水建設が着工したのである。

この用水建設で平兵衛は私財を投げ売ってまでも用水建設に取り組み、「山の腰めぐり」という工法で山裾をぬう様に造られていく特殊な水利技法で造られていった。この技法は、山裾の脇を通ることからがけ崩れなどによる用水の破壊が懸念されるものであるが、そうでもしなければ6年で完成することはありえなかったであろう。

この用水は享保2 年から同8 年までの6 年間を費やして完成し、その距離は、二里二十四町(11.5キロ)におよんだ。これにより、用水が通る近隣の村々では作物の生産量が増加し、新たに長柄台地に34.5haの新田が開かれ、用水完成から17年後の十村役新左衛門(桜井家9)のとき(元文5年(1740))に高松新村が正式に村として公認されたのである。

※当時、長柄用水は高松新村用水と呼ばれていた。


【用水関連項目の説明】(説明順番は探索経路と同じ)

@盛土神社


 用水工事の安全と工事の際の犠牲者を弔うため、また、用水と水を守るために用水の神として4ヵ所に祀られたものがこの神社の始まりといわれている。

 用水の完成後は長柄村の氏神と合祀し、現在の盛土神社となった。

 祀られている神にはそれぞれ用水に関連した由来があり、以下の通りである。

・貴布禰神(きふねのかみ)

 用水取り入れ口に由来するもので、水源の神であることから水がかれることが無いようにと祀られた。

・迦具土命(かぐつちのみこと)

 トンネルに由来するもので、トンネルを掘る際は明り取りの火が必要になることや、水平や勾配を計る道具を使用する際に必要なために祭られた。

・賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)

 この用水工事で亡くなった犠牲者の弔いのために祀られたものとされる。この賀茂別雷神は京都賀茂神社に祀られる神で、横山賀茂神社もこの神である。

・市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)

 長柄用水の最終地点である弁天池に由来し、水の女神として祀られたものである。なお、弁天池の名前は市杵嶋姫命の通称である弁財天が変形したものとされている。

A改修記念碑

長柄用水の改修工事が、総額15.680万円をかけて昭和54年この着工以来8 年ぶりに完成したのを記念し、昭和62 5 月に弁天池の向かいに建立されたものである。碑の高さ3 . 5 メートル、重さ25 トンもある羽昨市滝町産の石で、碑文は町長、長柄朝の筆で、傍らには由来書きの副碑も添えられている。

B弁天池

 弁天池は夏栗分水から100m程先に所在する池である。弁天池の名前は市杵嶋姫命の通称である弁財天が変形したものとされている。

C分水

 分水とは夏栗方面と長柄町方面とで73分けるようにされた長柄用水の分岐点である。この分岐点にはこの用水が造られた当時から分水するための石が置かれている。
 昔は水欲しさに用水から盗水する者も多かったようである。うまく盗むものもいれば、盗水を用水の番人に見つかるものもいたようで、村役人や村人に謝罪した古文書が多数残っている。

D盛土居・地蔵尊

これは山と山の間の谷に用水を通すため土を盛り上げたものである。盛土居は高さ20メートル、長さ90メートルのもので、日本には他に類のないものである。現在、一部は道路を通すために水管橋になっている。以前は水樋が土居の上(天端(てんば))を通っていたらしいが、今はU字溝となっている。
 この盛土居建設には難工事で、たくさんの人々が犠牲になった。その供養のため盛土居の頂上に地蔵尊が祀られている。(地蔵堂は平成元年(1989)に建立されたものである)

 なお、盛土神社の「土」の字には点が打ってある。これは土の字が漢代以来「士」と間違えやすいことから点を打ったと考えられているもので、この名残であると考えられる。実際に楷書と隷書には点がついている。

盛土居(下から) 盛土居の地蔵
盛土居(上から) 盛土居からの風景(元女集落)



E宝谷の樋・新保谷の樋 
 水
樋は宝谷と新保谷の2ヶ所にあり、宝谷は約13m、新保谷は約30mの長さがある。

宝谷(ほうだん)の樋 新保谷の樋



Fトンネル(間夫)
 用水の取り入れ口から1km下流の所に長さ20m、高さ1.8m、横幅1.5mの第1トンネルがあり、天井崩落防止のために現在は蓋がされている。それより下流に長さ108m、高さ2m、横幅2mの第二トンネルがある。第2トンネルの箕打の水トンネルは塵芥処理場や泥ぬきの仕掛けが備わっている。
 用水建設では農民の他に「宝達黒鍬組」と呼ばれる宝達金山の採掘技術者達が活躍し、用水に二ケ所あるトンネルの掘削など用水建設に大変貢献したようである。トンネル掘りは当時、技術的な問題や落盤の危惧からほとんどおこなわれることがなかった。しかも、長柄用水のトンネル付近は白山火山帯に見られるような粗岩であるため、もろく崩れやすい地質であった。このような悪条件の中、トンネルを掘りぬくことができたのは宝達金山の技術者の尽力の賜物であり、技術力の高さを伺いしることができる。

※宝達黒鍬組
 黒鍬組とは、江戸時代に土木工事を専門に行った集団のことである。前田氏の領内では能登黒鍬組と越中黒鍬組が知られており、能登黒鍬組が宝達黒鍬組と考えられる。県内の用水建設や土木工事に宝達黒鍬組(宝達者ともいわれた)が協力した話(辰巳用水建設・大野御台場普請など)が残っており、長柄用水建設にも協力していたようである。

G辺津理(へつり)
 大海川にせまる山肌を微妙な具合で水路が通り抜けているのが辺津理である。地質がもろいため昔からよく壊れ、そのたびに用水は麻痺し、多大な被害を出した。

 記録では文化13年(1816)と明治38年(1905)に大きな被害を出し、そのたびに大改修工事が行われている。


文化13(1816)に大きな被害を出した時に藩の役所である改作奉行に提出した文書である。

H古林家

 取り入れ口のある「がきが首」の近くには用水の番をしていた「夏栗屋庄右衛門」という人がいた。用水の完成から現在まで7代にわたって用水の水番をしている。
 また、盛土居の番として、「清右衛門」という人がいたようである。いつ頃まで続いたのかはわかっておらず、家の跡と伝わる所が残るのみである。なお、清右衛門は盛土居普請の責任者であったという。

I取水口

 長柄用水の取り入れ口は、海抜75 メートル地点の河合谷村(現津幡)大田の通称ガキガ首に設けられている。取り入れ口から少し先に大排水が設けられており、水の調節機をするためのものである。

※ガキガ首伝承
 当時、用水を通すために、そこを掘り抜いた時、そこから血が流れ出て七日七夜の間止まることがなかったという。人々は「餓鬼が首を切られたその血であろう」といい合い、そのことから「ガキガ首」と呼ばれるようになったという。
 餓鬼は仏教の教えの1つで、悪行の末、餓鬼道に落ちた者をいう。餓鬼道では飲食をすることができず、常に苦しむことになる。また、七日七夜も仏教に関連する数字である。

【参考】高松新村一村建の申付書(写)

 この古文書は、十村役平兵衛(桜井家8)によって長柄用水が引かれたことにより、新田が開けたため、新たに村を建てたいと十村役新左衛門(桜井家9)が藩に願い出たものである。この結果、元文5年(1740)に高松新村が正式に村として公認された。



【参考】サイフォン伝承とその技術について

 長柄用水では完成当初、「釣り溝」と呼ばれた「サイフォン」(siphon)という高度な技術がつかわれていたといわれている。サイフォンとは出発地点が目的地点より高い位置にあれば、液体の移動によって管の内部真空を作りだし、それにより液体を移動させることができるという原理である。 途中、どれくらい高い地点を通ることができるかは、大気圧と液体の比重とによる。 最高地点においては、重力が液体を両方に引っ張ろうとし、それにより真空が発生しようとする。 出発地点にある液体表面にかかる大気圧は、液体中を伝わり、真空が作られるのを防ぐ。 管内部にある液体の重量と大気圧が等しくなると、真空が発生してしまい、サイフォンの効果は生じない。 1気圧下において、ならば最高約10mの高さを通るサイフォンを作ることができる。 水銀の場合、おおよそ76cmのサイフォンが作成可能である。
 長柄用水では盛土居から太刀打山を越えて旧高松町営斎場跡(高松墓園)にあったと伝わる高松堤(古堤)流れ落ちていたといい、水の流れ落ちるところを「鹿の穴落とし」といったという。また、この水管の出口からは建設に際して犠牲となった者の屍が流れ出たというが、真偽のほどはわからない。
 現在、残念なことに「釣り溝」は使われていない。いつ頃、どんな理由で使用されなくなったのかはっきりしたことはわからないが、文化13年に起きた辺津理の大破壊に際し、使用が断念されたと考えられている。この大破壊をつたえる文書からは相当な被害であったことが文面から読み取れる。このことから、完成から99年間稼動していたと見られるサイフォンはこのとき役目を終え、現在の西山(カゲ山)廻りに変更されたと考えられる。

(長柄町のあゆみ・石川県河北郡高松町史を参照)

(サイフォンの原理の説明はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)

【参考】用水の管理・工夫について

 長柄用水の完成以来、人々は水路を守るためにさまざまな工夫や維持管理をおこなってきた。そのさまざまな工夫や維持管理の方法をこれから順におっていきたい。

[水路に施された工夫について]

・漆喰(しっくい)

 U字溝に整備される以前は、水路の曲がり角など、水流が強くあたる場所は壊れやすい場所であった。そのため、「漆喰(しっくい)」(石灰・粘土・苦汁などを混ぜて作ったコンクリート状のもの)を塗って補強していた。

・箕打の水トンネル

 取水口から2番目にある「箕打の水トンネル」には塵芥処理場や泥ぬきの仕掛けがそなわっており、毎年清掃作業がおこなわれている。

[用水管理・維持について]

 用水維持管理については毎年、春の用水堀、土手(弁天池)の枯れ草焼き、秋の草刈がおこなわれている。また、取水期には、水路の修理など、農家の人々は今でも用水をっ守るため努力している。

・堤(弁天池)替え行事

昔から34年おきに堤(弁天池)の水を抜いて点検をおこなっている。この点検では集落の娯楽を兼ねてコイ・フナ・ウナギつかみ取りをおこなっている。

(長柄町のあゆみを参照)

【参考】測量法について

 長柄用水の230分の1という勾配を生み出すためには正確な測量が必要となってくる。この測量の実行については土木工事を専門とし、用水建設に協力していたという黒鍬宝達組がその技術を持ち、おこなっていたように考えられる。

 この測量法については史料も少ないため、あまりよくわかっていないが、金沢市辰巳用水の建設に際しては、「町見盤」という道具が使われていたようである。

 町見盤の説明については、『加賀・能登 先人の歩み』(金沢大学教育学部附属高等学 2001、石川県高等学校文化連盟郷土部発行の会報40(2002.3)より参照し、改変)に詳しいのでこれを参照する。

 「辰巳用水が作られた当時は測量のことを『町を見る』(何町あるかはかる)、また、『何間の見様』(何間あるかはかる)などといい、『町見』は、日本で測量を意味する述語であった。そして、測量の原点(三角点)を含む同一水面上にある各店の方角を見るために作られたのがこの町見盤である。(町見盤は「町間の台」を略し「見盤」)ともいった。)
 町見盤は木製だったため、現物はほとんど残っていないが、その構造は次の通りである。

 孔aからbを通してcが見えたとき、bとcは同一水面状にあり、また、円盤の目盛によってpcの方向もわかるといったものである。しかし、レンズを使わず、肉眼だけで23点を同時にあわせるのは、不可能であることから、昼間には使用できないことになる。だが、あたりを暗くしてc点に光源をもってくることで容易に作業をすることができる。」
 以上が町見盤の説明であるが、この他にも、測量では高度な技術が用いられたことが考えられ、今後の追及していかなければならない。

【今後の課題】

 今の時点で、詳しくのべることはできないが、長柄用水を全国の用水と技術面などを見比べることや、サイフォンの使用についても考えていく必要がある。

【参考文献】

石川県高松町史       高松町史編纂委員会      1974

長柄町のあゆみ       長柄町活性化委員会      2000

石川県高等学校文化連盟郷土部会報40号           2002

4年社会科資料集第8版 たかまつ 高松町学校教育委員会編    1996

高松の地蔵・石碑めぐり  石川県河北郡高松町教育委員会 1990

図説押水町のあゆみ    押水町史編纂委員会      2001

石川県高松町史 史料編   高松町史編纂委員会      1983